自分がどうあるべきかを自分で決めるのは難しい。
職業を選んだ時点でその業界内での常識みたいなのがあって、自分の有り様みたいなのは自然に決まってくる。それが今までの常識であった。
例えば会社員であるなら、ひと昔前までは37℃前半くらいの発熱では休んじゃいけない、みたいな「常識」があった。
いまは合理的というのか、風邪なら他の人に移しちゃいけないとか、能率が落ちて周りに迷惑をかけるようになってしまうのはダメだからとか、考えてみれば当たり前のことが当たり前に考えられるようになったと思う。
そうして個々それぞれの権利、例えば有給休暇とかは有名無実的であったものもちゃんと主張できるようになってきてはいる。
じゃあ自分は「本当に」どうするべきなのか、は自分で考えなきゃならないわけだけれど、はっきり言って個々の意識はそこまで追いついてない人が多いように思います。
最近の日本人の良くないところとしてよく挙げられることですが、意思決定を自分の責任にできない。
何でもひとのせい、特にその場その場で責任のある立場にいるひとのせいにするひとが増えたように思います。
「だってそうしろと言ったから」とか「やれと言ってくれればやったのに」とか、まるで自分の意思で決めるのが悪いことのような言い方をするひとが目立つようになってきた。
あと、自分で決められなくて決定をひとに委ねておいていちゃもんをつけるひと。こういうひとも増えたね。
「自分じゃ分からないから言ってくださいよ、その通りやりますから」なんて言ってたくせに結果が思うように出ないと、「なんか初めから違うなあと思ってたんですよね」とか言ってくる、、、!
まさに「意思決定を自分の責任にできない」という感じ。
つかこうへい氏に「傷つくことだけ上手になって」というエッセイ集があって、
傷つくことだけ上手になって 角川文庫 つかこうへい 昭和57年月8月30日初版 帯つき 出版時に由来するきず
20歳代の頃に読んでずいぶん感心、得心したものだった。タイトルが秀逸でしょ。ホントそんなひとばっかりだ、、、と思うもの。もう40年前の作品なんだけれど全然色褪せない。「真実」は時代を超えて成立するんだね。
言い訳をするひとは終始言い訳を考えている、という感じなのかな。
俺は古い人間なんだろうけれど(否定的や謙遜の意で使ってない)、皆んなが、自分のやることは最初から最後まで自分の責任に於いてのみやる、という考え方がいちばん良いと思うんですね。
そういうインディビジュアリズムな考え方がすごく薄いのが地方、いわゆる田舎に住む人たち。とにかく矢面に立ちたがらない。ことなかれ主義。他者依存。田舎は人柄の良い性格の穏やかなひとが多いのは事実。であるがゆえになのかな、、、。こればっかりはインディビジュアリズムに満ち満ちた街、ふるさと東京が懐かしいよ、、、。
「自分で決めればいいんじゃない?」というと無責任だ、みたいなことを言うひともいるからね。そうして一括して責任者のせいにしてしくじったら首をすげ替える。あれ?これは田舎だけじゃなく政治の世界もそうなってるか。
いまの自分の考えを有り体に言ってしまえば、「徹底的にひとを選ぶ」こと。弱者のフリをして近づくひとにはほとほと飽き飽きした。そういうひとは人(俺)任せにしておいて、ダメになったらそれは自分のせいではない責任者(俺)のせいなんだとする。これもうやられ慣れちゃったよ。
あくまで自分の責任に於いて自分の意思、行動を取れるひと。そういうひとをこちらから探し出して、お互いにフィフティフィフティで信頼し合えるような協力体制をつくっていく。そうしないとダメ。つくづくそう思う。そうしないと俺が「傷つくことだけ上手になって」しまう。
ブログを書こうと思うとそれだけでこういう考えがまとめやすくなる。そして書いておけば後で読み返せるし。
こうやって自分の意見をその都度詳かにしていく。それこそが俺の矜恃であり俺の責任の取り方なのだ。サンキュー!
photo by Akihito
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