二面性/多面性

解離性同一性障害。かつては「多重人格」と呼ばれていた。

名作「アルジャーノンに花束を」の作者、ダニエル・キイスの著作「五番目のサリー」そして「24人のビリー・ミリガン」は共に解離性同一性障害を扱った作品だ。前者はミステリ小説、後者はノン・フィクション。

俺が読んだのは1993か1994年。かなりの衝撃を受けた。

人は誰しも裏表(うらおもて)というかひとつの側面だけで括れない部分があるものだ。あんなに優しかった人にこれほど冷酷な面があったとは、、、とかいった言葉が主に犯罪に絡んで出てくる。

「24人のビリー・ミリガン」にはビリーの幼少期の壮絶な虐待が明かされていて、その虐待からなんとか逃れようとして新たな人格を生み出していくさまが露わにされている。どうしようもない悲劇。非常に恐ろしい話しだ。正直後半は震えながら読んだ記憶がある。

口はばったい言い方だが俺はよくやさしいと言われる。しかしまた半面いつキレるかわからん人だとも言われてきた。極端に違う二つの面を指摘されたりもした。

1990年代に入ってからその二面性は顕著になった(らしい。自覚はあまりなかった)。92年に貰い事故(追突事故。過失割合10:0)でムチウチ、その後頸椎ヘルニアからの睡眠障害、そしてうつ病になっていった時期にかなりの数の本を読んだ。今考えると「そんな本読むなよ、、、」と思うような内向きになる本なんかも2、3年は乱読し続けていた。

その時期に前述の二冊を読んで、「自分もそう(解離性同一性障害)なんじゃないか」と怯えたけれど、この病気は「幼少期の激しい虐待」がほとんどの要因とされていることを知って、それは絶対ない、ありえない、ゆえに自分はそうではないのだと納得させたのだった。

今でも、例えば今日、昨日のライブのことについて思いを馳せていると「うまくいった。上出来だった。みんな楽しんでくれていた」と思う気持ちと「みな全然楽しそうではなかった。自分の演奏も全くよくなかった」と思う気持ちが本当に半々ずつくらいあって、午前中ずっと煩悶していた。

結論を出さないと次に繋げられないのでなんとか導きたいのだけれど、大抵の物事はこうなるんだ。成功と失敗。楽観と悲観。いつもこの二つが拮抗する。なかなか結論が導き出せない。結果的には熟慮する、よく考えることになるのだからいいのかとも思うがこの「煩悶」がハンパなくキツい。この頃は特にキツさを感じるようになっている。

自分のことは自分がいちばんわかっている、なんていう人がマジでうらやましいよ。俺はいままで「どうだったのか」ちっともわからんぞ、、、。

雨の日と月曜日はこんな状態になることが多いんで困る。非常に困る。


で、カーペンターズの助けを借りるわけです。しかしこのハーモニカは素晴らしいなあ。

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